職場における植物・自然環境の意味を考える

<<理研の自然環境フォーラムの開設にあたって>>
     

池  浩(ホームページ管理人)
 
hike@postman.riken.go.jp

「理研の自然環境ホームページ」を1999年4月1日に開設して1年が経過した。画像中心に理研の自然環境の美しさと貴重さを訴えようという趣旨であるが、幸い好評をもって迎えられている。12人くらいの画像提供者・協力者を得て、画像数は400枚を越えているし、メール配信を始めたせいかこの1ヶ月のアクセスは(サムネイルを除いて)延べ12,000件、ファイルの送信総量は500MBと表示されている。結構な量ではないだろうか。

 インターネットを利用してこのホームページを開設した発端は第1食堂前のユリノキが突然切り倒されたことにあった。失われた木を悼む。ある意味では情緒的なスタートなのだが後から考えてもそれはごく自然な形であったと言えよう。つまり人間はあれこれ科学的な知識や主義主張に基づいて行動するものであれ、ある種の抵抗にあうことがわかっている問題については、単に陰でブツブツ文句を言っているレベルに終わらすか、それとも社会的にある明確な形を持った行動に出るかのフィルターを通らなければならない。そこで「我慢できない」「黙っていられない」「このままでは…に申し訳が立たない」などという情緒的な判断が成立しない限りは、内心いくら異を唱えていようと流されてしまうものである。その意味でユリノキが何の顧慮もなく伐採されたことについて「黙っていられない」という判断が成立したことはそれだけ問題の背景のあることであったし、現在および未来の問題としても存在している。

 ホームページを開設して以来寄せられた感想の中でもっとも多いのは「理研構内の建設や開発の犠牲ということで自然環境が破壊されていくことを悼む」いう趣旨だったと思う。つまり研究所の量的発展か、自然保護かという選択の中で建物の建設などはある程度やむをえないものとしても、そこにある自然が破壊され喪失しいくことに抵抗感をもっている人が非常に多いわけである。これは実は日本全体がかかえている問題とも通じるものである。

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「動植物の自然が破壊されるのがたまらない」という反応は、人類がそこから生存できる環境を得ているという意味で一般的には当然でもあるのだが、職場でのいわば「小さな自然の破壊」に鋭く反応することには特殊な意味があるように思われる。そこでまず一般的な意味で自然環境とくに動植物がもつ意味を思い起こし、次に職場におけるその存在が果たす役割を考えてみよう。

前者の、一般的な問題設定については近年 環境問題とかエコロジーとかいう形でかなりの数の成書が出版されている。そこでは植物(樹木)に注目してみると
1. 地球環境の形成 炭酸ガスの吸収と酸素の生産(光合成)。
2. 土壌の管理・流出阻止。砂漠化・表土流出の阻止。
3. 保水作用。
4. 気候の変化を和らげる。
などがあげられている。
また人間との関係に注目すると
1. 上記の作用を通じた農業・水産業への寄与。災害防止。
2. 木材の提供。
3. 暴風、防雪、防砂などの緩衝作用。
4. 垣根などの構造的利用。
5. 都会における騒音低減、木陰の提供、大気汚染の緩和。
6. 精神的休息作用。鑑賞の対象として。また森林浴のようなリフレッシュ効果。
などがあげられている。
つまり地球規模の自然環境という意味ではその役割を否定することは何人にもできないし、人間生活にとっても一般論としては森林・樹林の保全が必要なことは論を待たない。

ところが、それでは過密な都市生活や土地資源の不足している環境で、どの程度の自然環境を保持しなければいけないかとなると、はっきりした基準がないのが実状といえよう。もちろん形式的には環境アセスメントがなされているわけだろうが、あの通り樹林が切り倒され次々にビルディングが建っている現状をみていると,現在の日本ではそれは形式にとどまり何ら有効な作用をしているように思えない。たとえ国立公園の指定がなされていても実際には樹木が「林業により収益を計る」という枠組みの中で商業的価値のあるものから伐採され、森林破壊が進行している日本の現状をみると、根本的発想がおかしいのだろう。実際には都会の公園の面積率など計量容易な指標があるにもかかわらず、現実には非常に緑の乏しい都会が出現している。都会の緑については観賞用あるいは景観に潤いを与えるというあいまいな基準でしか保護されていなのではないかと思われるほどである。

しかしここでは行政の基準はどうであるという議論を置いて、ひとまず自然と人間のつきあい方を文化の領域に属する問題ととらえたい。このホームページおよびフォーラムで深めるべきことは職場において人間と動植物の共生という問題である。それを通じて職場環境・研究環境としての人間生活の完全(コンプリート)な姿をつくっていくことだと考える。けして短絡的に「研究成果のあがる環境作り」みたいな発想になるべきではない。それは科学そのものが「生活に役立つ科学」という短絡的な姿を目標に限定すべきでないことと似ている。そこには自然界と自然科学を業とする者の省察が必要である。

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自然科学は古来神秘的な現象や目に見えないような現象ですら理論と実験によってその原理と機構を明らかにしてきた。そして今生物やその一部としての脳の機能が研究の大きな対象として取り上げられ、理研でも比重を増している。ではこのような諸科学が発展すれば、あらゆることが疑問の余地なく解明され、人類は知の勝利を高々と宣言し、地球を思いのままに改変したり、未来をコントロールすることが可能になり、生老病死や自分および子孫の運命について思い煩うことがなくなるのであろうか?

実はまだまだ人間の知の及ぶところではない世界というものは広い。それを似非の勝利・支配宣言することは、無知であるかあるいは意図的なカモフラージュであるかのどちらかであろう。地球に育まれて進化・発展してきた人類が、持ち得た力を振り回して地球を根本的に支配したり、地球を改変したり、他の生物を絶滅させたりする権利はない。数十億年をかけて形成してきた地球環境を根本的に変える力をもったとしても、それは破壊こそできても微妙な自然のバランスを維持できる物ではないだろう。特に生半可な知識や認識で放射性廃棄物を多量に発生したり遺伝子操作などにより、人類および他の生物に対して回復不可能な損傷を与えたり、負債を残していくことは道義的にも許されない。

科学する者の最低限度のマナーは、ここまで生物の生存することを可能としてきた何十億年にわたって築きあげられた地球環境を保持し次の世代によりよい姿で渡していくことである。すでに人類は地球をおおいに痛めてつけてしまっている現状を直視する必要がある

 これだけ科学が進歩してきた時代、逆説的だが一番必要なものは自然や生命に対する畏敬の念である。自然界や植物・樹林とのつきあいの中で人類は成長してきたのであるが、それを材料や道具としてみるのではなく、対等な地球上での乗合い客みたいにもみる必要があるのだろう。今一番必要な倫理は一緒に生きてきた生物への畏敬の念を伝えていくことではないだろうか。それらの生き物の代表あるいは窓口として接しているのが理研の自然環境なのだろう。

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最近“樹教”という言葉が目にいた。
「桜より梅がよくなる。枝ぶりにほれる。これも年齢かな。でもホント、木はいい。なかでも雑木が好き。そこらへんのケヤキとかブナとかなんでもない木。あ、友達って気になる。木は寡黙で、人間や動物みたいにアピールもしなければ、排せつもしない。移動もしない。淡々としている。木はすごい。人間は木がないと生きてられなくて滅んでしまうけど、樹木は人間がいなくても生きていくでしょう。木のほうが数段上、偉大で崇高なものですよ。こんど宗教をやるとしたら儒教ならぬ樹教。ああ、樹教に走りたい。樹木愛にハマりたい!」
(山口洋子氏の語る「老いのブルース」というインタビュー記事、2000年3月14日の毎日新聞夕刊より)

私も感覚的には大いに賛同した。四季の変化があって,生きていて,成長していくもの,それでいて目にやさしく,人間に必要ないろんな環境を提供してくれるもの,変化が急速ではなくて人間の世代の変化速度とちょうど同程度の速度で変っていくもの,そういういろんな条件で友でもあり,巨樹は師でもあるということになるだろうか.

そこで“樹教徒”の特徴を考えてみた。
1.花よりも枝振りや幹に目がいく。
2.雑木を愛す。
3.50年先の姿を想像する力をもつ。
それに対してある友人は次のようなコメントをよこしてくれた。まさに人間と植物との清々しいつきあいを表した言葉だと思う。

1.’枝振りや幹に目がいく’のは、花があってこそ。
山桜の一枝を花瓶にさすと、清楚な花と悠々と伸ばす枝の調和が素晴らしい。聞くところによると、大きな木の幹に耳を付けていると中を水が通る音が聞こえると言う。
2.’雑木を愛す’のは、大賛成。春、雑木林の霞むような芽吹きの様子、新緑の清々しさ。夏の太陽を遮るたくましい緑の林。もちろん秋の燃えるような木々の葉。木の花も魅力的。エゴノキの花の敷き詰められた林の道を歩く贅沢さ。
3.’50年先を想像する’よりも、この木はずっと昔からここにあって庶民の生活を見てたんだなあという感動。自分がいなくなってもまだずっとここに居るのかなあという不思議さ。ほんとに木は奥ゆかしい。

まあ全体としては賛同を得たと言えるだろう。こういう仲間を増やしたいのはやまやまなのだが、それほど関心のない人に対しても次のような問いかけは提出したい。
 「果たして森林なくして人類は生存できたか。それを破壊できるだけのパワーをもった人類が森林保護を念頭になくして今後生き続けられるのだろうか。そしてそういう樹林と人間とのつきあいを生活の場で保っていくことの価値は、教育的という以上に科学研究を実践する人間のために特に必要なのではないか?」

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このような観点でみると失われたものが多いとはいえ、理研構内の自然が持つ意味はけして小さくはない。自宅やその周辺で自然との交わりの機会が少ない人にとっては特に貴重な機会だと思われる。生き物、特に樹木や草花や鳥たちと私たちのコミュニケートをする場が開けているからである。彼らに声をかけるつもりで接してみてはどうだろうか。専門分野の入り組んだ論理や事実、あるいは見えるようで見えないあいまいな領域に頭脳を回転させている束の間に、昼休みでもよい、構内を一回りしたり、自分の好きなスポットへ行ってみて四季を味わったり、少しはよい空気を吸ってみたり、自然の変化を発見したりする。単なる気分転換という以上にそういう自然とのつきあいが生活の一部となるようにしていきたいものである。そして現在の貴重な自然環境をより豊かにして、これからの「理研人」に伝えていきたいものである。

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 本ホームページの趣旨も実績も確立してきたので、一段の活動の幅を広げるため、いろいろな意見を交換する場として「理研の自然環境フォーラム」とでも言うべき場をつくる時期かと考えた。この一文がきっかけになって、皆さんのご意見や生き物とのつきあいかた、思いなどを寄せていただくとありがたいと思います。順次掲載していきます。匿名でも結構です。

さて本稿を終えにあたり、各方面につぎのようなことを要望したい。

【研究所当局】
職員の代表と自然環境のマスタープランを話し合う場の設置。
50年後の自然環境マスタープラン作成。
自然池、理研の武蔵野などコアになる環境の永久保全と環境維持。
計画的な植林と環境保護領域の増加。
より自然環境保全に配慮した環境アセスメントを実施すること。
建物の建設時には樹木の保全に最大限の努力を払うこと。

【読者のみなさん】
「これ以上のビルの谷間にすることは耐えられない」という声をあげること。
休憩時間などにはできるだけ外を歩いて四季の変化を観察すること。
ゴミ/吸い殻などを残さないこと。
観察結果の記録と共有(自然環境ホームページも活用してください)。
環境と人間活動に関するこのフォーラムの活用。
理研の自然環境実態調査活動への協力。

(2000年4月23日)